マツダランプの道標 |
マツダランプは白熱球を日本で初めて造った「東京電気株式会社」(現在の東芝)がライセンスで生産したアメリカのブランド。
この道標が建てられたきっかけは1955年に遡ります。
その年、谷川岳から上越国境稜線を平標山への登山道が開拓され、11月4日、マツダ(東芝)隊3名、三井鉱山隊3名、日本光学隊2名が、快晴の中、肩の小屋を出発します。
日本光学隊は軽装、1時間ほど早い6時に出発。
続いて三井鉱山隊が出発。三井鉱山隊は男性1名、女性2名のパーティ。
最後に東芝隊。天幕、アイゼン等の重装備。
出発して間もないオジカ沢の頭付近から天候が急変、濃霧に強風。
三井鉱山隊、万太郎山の下りで日本光学隊に追いつく。
日本光学隊先行、三井鉱山隊はエビス大黒の頭で昼食。小雨模様に。強風。
三井鉱山隊、仙ノ倉通過。平標への道標があべこべになっており仙ノ倉に引き返す。
三井鉱山隊、東芝隊と合流、協議の上、再出発。
二隊、仙ノ倉・平標最低鞍部着。小屋まで2キロ。すぐに日没。
東芝隊、300メートル進んだ地点で凍死(全員死亡につき詳細不明)。
三井鉱山隊、動けなくなった女性を背負って前進。
平標山頂直下で女性1名死亡。ビバーク。
午前3時、男性も死亡。ほどなく晴れる。
午前5時50分、ビバーク地点出発。
午前6時30分、平標小屋着。
午前7時30分、東芝隊宛に救援要請のメモを残し小屋発。
午前10時30分、法師温泉着。救助される。
この悲劇をきっかけに東芝が設置したのが「マツダランプ」の道標なのです。
一部、東芝のランプにリニューアルされたものもありますが、残って欲しい、山岳遺産。
赤い道標は、現在も登山道を照らしています。